中村EMB竜朗の書き散らし

虚言癖の独り言

書く事

書く事は忘れるためにある。

文字にする事で減らす事のできる脳内情報。

逆説的に、失いたくないものは文字にはできない。

過去をなかなか書けないのはそれが理由かな?

 

消え行く所感を書く。忘れいくものを書く事。それが書く事。歴史は残された文字の集積。忘れないもの失われないものは歴史には載らない。

 

行間を生きる。何者でもない自分を生きる。社会的肩書の、形容名詞の着けようのない自分を生きる。

 

忘れられる自分を忘れられるつもりで生きる。

 

本質的。

 

無常。

 

それは私は自由だと思う。

 

記憶が薄れるという事は記憶された事実の後に起こる。記憶した事実は残る。そこに愛も恋もある。

 

それで良い。

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ブログは

即興の独白。

 

即興でない独白は、あるのか?

 

情報の多い都会を離れ辺境へ。世界との付き合い方を再調整するべく、生活習慣を見直すために引っ越しました。

 

まず体。体は意識によって司られ、生活習慣によって実質的に創り上げられ維持管理されている。健康である事。この事を毎日の最優先事項に意識的に掲げる。身体的健康、精神的健康、経済的健康。

 

食事内容の改善。適度な運動。呼吸法。水分補給。

 

この作業はほとんど引き算的作業である。無駄なものを捨てていく感覚。残すべきものが自然と選ばれていく。

 

次に考え方の調整。強迫観念からではなく真に主体的な欲求を自らの内に探す。〇〇でないと〇〇だから〇〇する、という反動的に廻る思考回路を捨てる。シンプルに、純粋な自己実現願望はどこに向いているか。これはなかなか難しい。周りの世界から自立する事は時に拒絶が必要なので摩擦をする事なく躱す柔らかさが肝である。

 

世の中を動かす大きなビジネスが上記の強迫観念的な欲求を煽って廻る事と、コミュニティの内部に動物的直感によって生まれる公共の精神によって守られる規律との狭間で我々は生きている。

 

動物的直感を取り戻そう。動物的な価値観の最上にあるのは、健康、ではないか。健康とはつまり持続可能な適度な緊張と緩和、苦痛と快感のサイクル。

 

あらゆるステータスを表す数字ではなく、今日の目覚めが快いか。労働の後の達成感に幸せを感じる事ができるか。

 

数字は概念である。私達は実在する物質であり、身体として生きる動物だ。概念に飲み込まれる必要はない。

 

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太宰治 「水仙」と義兄の思い出

織田作之助太宰治坂口安吾と回し読みしてると、戦前後の世界をふと憧れたりする。現代におけるその存在、時代の息づかいを表現しているのは何だろうか。思い当たるものがあれば是非教えて欲しい。

 

今日は数日前に友人から勧められ読んだ水仙

太宰治水仙

 

太宰治は優しい。きめ細やかな人間味のある、スケールの小ささ。それに全身全霊で歯向かう姿、それを惜しげもなく見せる男。

 

優しさが文全体に滲み出ているから惹きつけられる。

 

太宰は少年の心のようなものを守りそれを文でさらけだすので、我々は容易に感情移入し、同化し、揺さぶられ、そしてまた彼の優しさと脆さに出会う。

 

太宰治を読んでいると今年春頃に若くして亡くなった今同棲中の婚約者の兄を思いだす。彫り師として破天荒な鋭い感性とともに生きながら、一方で精神的な真面目さを感じる人だった。遁世的でありながら学術的だった。といっても私は彼に会っていない、我々は互いに意識しながら、間接的に影響し合っていた。と思う。

 

一度音楽を辞めようか考えた事があった。当時沖縄において、自主制作で初めてCDを作った時期だった。

 

その時期に私は彼女に出会った。彼女は音源を高く評価してくれ東京に行くべきだと私に勧めた。当時友人知人の社交辞令的な感想の言葉に嫌気がさしていた小心者でひねくれ屋の私は、同じく社交辞令的に感謝の意を伝えた。それは一種の防衛本能であったがしかし、彼女はその態度に納得せず、いかに環境に不釣り合いな内容になっているかを説いた。私はその言葉に救われた。

 

その後、彼女の兄が芸術家である事を知り、また日々の生活において彼女へ投げかける破天荒でありながら目から鱗の言葉の数々を聞いた。すでに尊敬し、影響を受け初めていた私は彼に音源を渡してくれるように彼女に頼んだ。彼女は快諾した。

 

義兄は三度聴いて、ようやく理解した。そう言った後何度も聴いてくれていたらしい。連絡先を載せていた方が良いと言っていたと。

 

今になってみれば何故この時期に会わなかったのか、不思議だ。この距離感を我々は大事にしていたようにも思う。しかしもう二度と会えないと思うと泣きたい気にすらなる。彼の亡くなった時、3枚まで内容可能のCDコンポの中には2枚のCDが残っており、うちの1枚は私のものであった。それは彼と一種に焼かれ灰になった。

 

彼の存在は、知り合って以後ずっと私に力を与えてくれるもので、今でもそうだ。感性の鋭さと脆さ、優しさを太宰の文に見るたびに義兄を思い出す。だから私は太宰が好きなのかもしれない。

 

追伸
義兄の遺言に、遺灰は読谷村とジャマイカにとあった。私はジャマイカに行くきっかけをもらったと思っているし、灰になった私の音楽も連れて行く事にもなる。キザで勘違い屋の私はこの事を大きく受け止めている。数年後、生活が落ち着いたら行こうと思う。

坂口安吾 「いづこへ」

どこまでも堕ちる。坂口安吾
硬質の私小説のリアリティをもって、どんどん引きずられていく。もはや不快な程に人間を晒していく徹底した自己内面の描写にえぐられる。

 

ショッキングだ。

 

2010年代ダークアンビエントやエクスペリメンタル、ミニマルなノイズにも感じる、徹底したマイナー世界の安定感。強さ。

 

この人は恐ろしい。そして、魅力的だ。

 

女にまみれて堕ちて行くのに、色鮮やかさはなく、ドロドロと醜く重く描かれているのは、その対極で葛藤する坂口の純潔の追求。

 

「真実の価値あるものを生むためには、必ず自己犠牲が必要なのだ。人のために捧げられた奉仕の魂が必要だ。その魂が天来のものである時には、決して幇間の姿の如く卑小賤劣なものではなく、芸術の高さにあるものだ。そして如何なる天才も目先の小さな我慾だけに狂つてしまふと、高さ、その真実の価値は一挙に下落し死滅する」

 

この人こそ、生きている。ただただ糞真面目に。痛みを撒き散らして。小説になっていなければ、救いようがなく闇深い。しかし徹底的に内面の奥深くを描写される事で、その業火に生を見る事ができる。

生き様を書く。無頼派とは恐ろしいものだ。

 

 

坂口安吾 「意識と時間との関係」

いきなりですが、我ながら浅はかな人間だなと思う。別にそんな自分は嫌いではないので悲観しているわけではないので心配無用ですが、とにかく憧れの対象を見つけると影響されやすい。笑える話ですがしかし移り変わりも激しいので逆に長期的に何かに偏る事はないですね。

そうやって擬態を重ねていく事でいつかオリジナリティめいたものが生まれていくと信じたい。

貫徹した作家の作品を読むとそういう自省を促される。いい傾向だ。はは。

 

 

友人の勧めもあり太宰治の作品を続けて幾つか読んだのですが、ここ数日すっかり太宰カブレだったのでここでは気分を変えて坂口安吾へ。織田作之助太宰治と並べて日本戦後文学の真の作家と褒め奉った坂口。

 

少し前に芥川賞を受賞した西村賢太も大きく影響を受けたであろう無頼派作家の巨匠。

 

最初、世界観のわかる作品を見つけることができず雑誌などに寄稿した小論文ばかり読んでしまい

 

しょ、 小説 じゃ ない…

 

とモヤモヤしていたが、そんな小論群の中に考えさせられるものがあり備忘用に書きます。僕の坂口安吾体験のイントロという事で。

 

坂口安吾 「意識と時間との関係」

 

小論文なので要約を、

 

 

 

意識の世界には未来は存在しない
現在と過去が在るのみ

「なにかを意識しつつある力」のみが現在にあり
意識の対象は全て、意識された途端に
意識された結果、過去となる

 

 

 


本文は細かく設定していく坂口安吾の頑鉄ぶりが読める文。龍樹の中論に感銘を受けて書きまとめたものだそう。

 

未来を考えるといえば何か希望に満ちている善行のように聞こえるが、しかし我々が生きている現在を忘れてしまう程に世の中は誘惑に満ちている、身にしみるわい。未熟で意志薄弱な僕には未来を考える事とは非常に罠に満ちている危険な行為ですらある。現在だ。現在。

 

坂口安吾は価値観やメッセージを口うるさく説教する事なく、意識と時間について語るのみですが、かえってその余白が非常に意味深いものでした。 

 

坂口安吾が作家としてどういう世界観を書いているのかはこれかれ知るところ。非常に楽しみだなあ。

 

「私はそのころ耳を澄ますやうにして生きてゐた。もつともそれは注意を集中してゐるといふ意味ではないので、あべこべに、考へる気力といふものがなくなつたので、耳を澄ましてゐたのであつた。」

 

ようやく相方の助けもあって坂口安吾節が冴え渡る「いづこへ」を読むに至ってますので読んだころにまた。

 

ちなみに太宰の水仙も読みました。明日か明後日にでも書こうかな。ネタがいっぱいあって楽しいね。

 

 

太宰治 狂言の神

三日坊主の三日目がやってきてしまいましたが、だんだん楽しくなってきたので続くかもしれません。読みだすと止まらないですね。最近は毎日通勤時間が1時間半あるから、助かる。笑

 

それはそうと、やはり言葉ってのは面白いですね。作家は凄い。自分の事でも人生を独占して生きるって簡単じゃない。だいたいの人が周りの環境に影響されて生きてる中、彼らはそこには仮の存在を残し、文の中に真の自分を創るから、侵されない。早死が多い事を考えると楽ではないだろうが、尊敬しますね。

 

では三日目

 

太宰治狂言の神」

果たしてどこから形容したらいいのか。まず、太宰はこれ、タイトルから決めてかかったのだろうか。凄い。

 

退廃思想の即興演奏。JAZZだ。ふりーじゃず。コンテンポラリイジャズ。

 

話の筋を立てずに閃きを文字で追いかける。そのいちいちのフレーズが存在感を示し一言一言の遊びがニヤつかせる。

 

曰く「たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折の作家」のような「老大家の手記」風に取繕われた文体には魅力があり

 

話の構成の端々に狂気が満ちる。
シラフで書いたのか?

 

あざとい装いを意図的に纏う試みそのものが悪戯的で、
行儀悪く世のタブーを持て遊ぶ太宰の人間性が笑う。

 

友達になりたい、太宰治。なんて面白いヤツだ。

 

活き活きと死ぬ。

 

明朗に死ぬる。

 

話の舞台を時折破壊して太宰本人の脳内実験である事を露呈するのも、遊んでる。

 

実話だからこそ、か?いやいや首吊って30分もたないだう。

 

叩かれる様が思い浮かぶ、挑発的な部分も含めて好きだなぁ。

 

だんだん虜になりつつあります。太宰治。お前は本当にダメなヤツだ。人間失格だ。

 

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太宰治 駆け込み訴え

そうきたか

 

太宰治

 

太宰治は例えば白昼真っ只中で野糞をしたというような話を人間の芯から滲み出る業として書くことのできる稀有な作家ですね。

 

行儀の悪い感性の鋭さ。大好きです。

 

「はい、はい。申し遅れました。私の名は商人のユダ。へっへっ。イスカリオテのユダ。」

 

最後のこの一文に「へっへっ」とわざわざいれるあたりが好きです。

 

この小説に関しては随所に見られるユーモアの行儀の悪い事この上ない。しかし笑える。

 

漫画セイントお兄さんに通ずるような宗教へのアプローチ。が太宰治のユダを通してのアンチキリスト表現は辛辣かつ生々しい。

タブーを笑いに変えてしまうあたりはこの人の生き様を感じる程です。

 

織田作之助にして「日本には宗教がなく、それが歴史的大作が生まれない所以だ」という日本という土壌で

 

「最近大人しくなってきていて心配だ」という織田作の心配をばっちり裏切っていく暴れん坊なこの作品に見える太宰治

 

最後のオチのように「へっへっ」とニヤついていたに違いない。

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