演無 健忘症の書き散らし

虚言癖の独り言

日本

スポーツは好きじゃないが、まだ成熟できずにいるこどもたちの教育にはいいと思っている。国単位での争いに一喜一憂し、その驚くべき無駄と遠回りの中で他者理解を学んでいく壮大な、神の子育てとも言えるかもしれない。

 

世界の島国の先住民、原住民の絶滅の歴史は常に外界からの侵略の歴史だという善悪観念に基づく一つの理解の型、数式があるとする。

 

善悪観念というある種感情的な徹底的主観を基にする以上は数式としては不完全で現象を整理して未来を予知するものにはなり得ない。

 

自然界における細胞分裂や液体の混ざり方など、原理的な領域の記号化とその研究のように動物社会及び人間社会を扱うとする。

 

変化とは常にあらゆる規模感の違う破壊と再生で、不可避なもの。

感情的な盲目を乗り越えるには型枠に囚われて未来に怯えず変化を受け入れ痛みを理解することが必要だ。

 

意識の発達によって選択肢を与えられた我々は現状を直視して未来を想像し創造することが、生きる、ということ。成長。

 

ユートピアディストピアというのは切り取られた断面の1要素でしかなく。上か下か、上がっているか下がっているかというのは時間の尺度を取り入れ立体的にみると不定形の曲線や歪な形を描くはずだ。

 

直視し、破壊し、再生し。

 

新しい世代が真理へ近づいていく。問題なのは常に古い世代の古い価値観によって、新しい世代が脅迫的に教育されることになってしまった老熟した人間社会にある。

 

それでも新しい世代や野生を失っていない精神的な若者たちは、あらゆる原理的な現象、自然や芸術や性行為から直感による真理を見出すはずだ。

 

腐っていく世界に愛を。

鬱と躁

もし人生の良し悪しや幸福度が全てその人の外界の感受の仕方によるものだとしたら、全ての行動や選択は幸福度とは関係のないものとなる。

 

なにがおきても幸福を感じるような思考回路や感受性を身につけたとしたら、我々は何かを得ようとする必要がない。

 

ただ流れに身を委ねあるがままに生きて死ぬ。そこに最大の幸福を見いだすことのできる人を、おれは今みたい。そして自分もそういう風に生きていけないか考えている。

 

肩書きもなんでもよい。サラリーマン、土方、ホームレス、アーティスト、料理人、フリーター。

これらは外界の情報。

 

内側に実際に入り込んでくるのは五感を通したリアルタイムの感覚の情報のみ。その他は偶像的であると言える。

 

我々は社会という偶像の中で生きて、実像を見えなくなってしまっているのかもしれない。

 

幸せとは、偶像からではなく実像からくるはずだ。快感とは、極めてフィジカルなものだから。

 

揺るぎない喜びのフィルターをもつ。

そうやっていきる。

今日は

今日はすごく考えさせられた1日だった。

表現とはなにか、生活とアートとエンターテイメントとデザインとお金。

 

最近自覚が足りないらしい。

自分はアーティストであるという自覚。

それは少し前までは頑なにこだわってきたはずの部分。今でもそうであるような気がしつつ、少し変わってしまったところがあることに気づいた。

 

いつからだろう。そしてどうしてだろう。

 

お金と生活との間に答えがあるような気がする。いや、違う。思考停止とインプットの量の低下?

 

わかった。

製作活動をやれない環境が続いていることが原因だ。

 

今、おれは製作することが必要だ。

 

少し前まで、contactにはいって少しまで、製作活動にこだわってきた。

 

でも自分への信頼を持ちきれず向き合うことをすこしやめた。

 

音楽はいつのまにか趣味に、そして音響という曖昧で幅広い領域で程よい需要を見つけていく仕事になっていた。

 

創作

 

ライブやDJそのバランス感覚の中で自由に表現を広げていったのかもしれない。伝わるし伝えるということがなにかわかっていく時間だった。

 

でも、やっていることは

 

ひきこもって製作していたときに見つけいったものたちだ

 

自分の中での発見のタイミングと

 

周りに伝わって評価に変わっていくタイミングは当然ながら違うんだと

 

ようやくわかってきた。

 

おれは一人と場所が必要だ。

 

じっくりと創作し自分に向き合えるプライベートの場所と時間。

 

今このまわりの環境なら創れば伝わる。

 

そして新たな展開が今俺の目の前で俺を待っている。

 

行くしかない。

 

行きたい。

 

ようやく、ここからがスタートらしい。

ありがとうございました、本当にありがとう、HBC楽しかったよね

長い苦しみから解放されて、本当によく頑張ったねと言ってあげたい。

もう勘ぐったり背伸びしたり取り繕ったり後悔したりそれを隠して笑ったりしなくていい。

戦い抜いたよね。

苦しみを深く知っていながら、他人の苦しみのために涙を流せる美しさが、忘れられない。

 

人間的な、本当に人間的な、生々しい楽しい時間をありがとう。極端な、不器用な人間が集まってドタバタで過ごしたあのお店は、あの時間は、最高に楽しかったよね。

 

あまりにも生きている人だったから、あなたがこの世にもういないということを受け入れるには時間がかかりそう。

おれは弱い人間だから、通夜にも葬式にもいけないよ。

でも忘れないよ。

ありがとう。

 

愛情

もし終わりがない永遠の命だとしたら、個人と個人は永遠に別の人なんだろう。何もないところから生まれてそして無に帰るから、あなたともやがて同じものになれる。

生きてる間は与えられた得意不得意のもとでなにかを探さなければいけない。生きてる間は完全に同じものになることはできない。でも、気持ちを溶け合わせることができる、この想像力で孤独の壁を乗り越えられる。 

便宜上うまれたあらゆるルールとは遥かに別の次元で、あなたと同じ存在でいたいという気持ちと、そのイメージを、生み出し育み大事にし続ける。体がなくなって無に帰るまで。

I love you honey

I love you brother

やがて同じものになれるから、そこに向かっていくハッピーエンドなシステム。未来は常にどこから見ても明るく、おれたちはそういう意味では想像力においてすでに繋がっているから、なんの心配もいらない。

今はもう体を抜けて、先に待っていてくれているあの人にも楽しんでもらえるように、与えられたものをフルに使って、土産話におれなりの景色を存分見ておく。

それぞれみたい景色と探し物は違う。けれども美しいものが見たいんだと思う。 

対立しているような気がしている相手の、探している景色を理解できることは案外簡単だ。

手続きや利便性や臆病さにとらわれずに、どんな美しい景色が好きかを提示し合えればいいのに。

正解がなく、間違いもなく、美しさにおいて感動する涙としておれたちは一つになれるんだろう。

太宰治 「水仙」と義兄の思い出

織田作之助太宰治坂口安吾と回し読みしてると、戦前後の世界をふと憧れたりする。現代におけるその存在、時代の息づかいを表現しているのは何だろうか。思い当たるものがあれば是非教えて欲しい。

 

今日は数日前に友人から勧められ読んだ水仙

太宰治水仙

 

太宰治は優しい。きめ細やかな人間味のある、スケールの小ささ。それに全身全霊で歯向かう姿、それを惜しげもなく見せる男。

 

優しさが文全体に滲み出ているから惹きつけられる。

 

太宰は少年の心のようなものを守りそれを文でさらけだすので、我々は容易に感情移入し、同化し、揺さぶられ、そしてまた彼の優しさと脆さに出会う。

 

太宰治を読んでいると今年春頃に若くして亡くなった今同棲中の婚約者の兄を思いだす。彫り師として破天荒な鋭い感性とともに生きながら、一方で精神的な真面目さを感じる人だった。遁世的でありながら学術的だった。といっても私は彼に会っていない、我々は互いに意識しながら、間接的に影響し合っていた。と思う。

 

一度音楽を辞めようか考えた事があった。当時沖縄において、自主制作で初めてCDを作った時期だった。

 

その時期に私は彼女に出会った。彼女は音源を高く評価してくれ東京に行くべきだと私に勧めた。当時友人知人の社交辞令的な感想の言葉に嫌気がさしていた小心者でひねくれ屋の私は、同じく社交辞令的に感謝の意を伝えた。それは一種の防衛本能であったがしかし、彼女はその態度に納得せず、いかに環境に不釣り合いな内容になっているかを説いた。私はその言葉に救われた。

 

その後、彼女の兄が芸術家である事を知り、また日々の生活において彼女へ投げかける破天荒でありながら目から鱗の言葉の数々を聞いた。すでに尊敬し、影響を受け初めていた私は彼に音源を渡してくれるように彼女に頼んだ。彼女は快諾した。

 

義兄は三度聴いて、ようやく理解した。そう言った後何度も聴いてくれていたらしい。連絡先を載せていた方が良いと言っていたと。

 

今になってみれば何故この時期に会わなかったのか、不思議だ。この距離感を我々は大事にしていたようにも思う。しかしもう二度と会えないと思うと泣きたい気にすらなる。彼の亡くなった時、3枚まで内容可能のCDコンポの中には2枚のCDが残っており、うちの1枚は私のものであった。それは彼と一種に焼かれ灰になった。

 

彼の存在は、知り合って以後ずっと私に力を与えてくれるもので、今でもそうだ。感性の鋭さと脆さ、優しさを太宰の文に見るたびに義兄を思い出す。だから私は太宰が好きなのかもしれない。

 

追伸
義兄の遺言に、遺灰は読谷村とジャマイカにとあった。私はジャマイカに行くきっかけをもらったと思っているし、灰になった私の音楽も連れて行く事にもなる。キザで勘違い屋の私はこの事を大きく受け止めている。数年後、生活が落ち着いたら行こうと思う。

坂口安吾 「いづこへ」

どこまでも堕ちる。坂口安吾
硬質の私小説のリアリティをもって、どんどん引きずられていく。もはや不快な程に人間を晒していく徹底した自己内面の描写にえぐられる。

 

ショッキングだ。

 

2010年代ダークアンビエントやエクスペリメンタル、ミニマルなノイズにも感じる、徹底したマイナー世界の安定感。強さ。

 

この人は恐ろしい。そして、魅力的だ。

 

女にまみれて堕ちて行くのに、色鮮やかさはなく、ドロドロと醜く重く描かれているのは、その対極で葛藤する坂口の純潔の追求。

 

「真実の価値あるものを生むためには、必ず自己犠牲が必要なのだ。人のために捧げられた奉仕の魂が必要だ。その魂が天来のものである時には、決して幇間の姿の如く卑小賤劣なものではなく、芸術の高さにあるものだ。そして如何なる天才も目先の小さな我慾だけに狂つてしまふと、高さ、その真実の価値は一挙に下落し死滅する」

 

この人こそ、生きている。ただただ糞真面目に。痛みを撒き散らして。小説になっていなければ、救いようがなく闇深い。しかし徹底的に内面の奥深くを描写される事で、その業火に生を見る事ができる。

生き様を書く。無頼派とは恐ろしいものだ。