演無 健忘症の書き散らし

虚言癖の独り言

チャールズ・ブコースキーとサティシュ・クマール②

毒と薬は出どころは一緒。

 

求道とは生きるという事。

 

まだまだ続くよね。

 

呼吸しよう。スヴァダルマってステキな概念。

チャールズ・ブコースキーとサティシュ・クマール

ここしばらくサティシュ・クマールという現代インドを代表する思想家が書いた

 

君あり、故に我あり

依存の宣言

 

という本を読んでいる。

全てのページに驚きがある革新的な本。事あるごとに考えさせられるために読んでは考え、読んでは考えという風に読まざるを得ないため凄く時間がかかっているんですが

 

この時系列的に進んでいく自伝形式の本において、ジャイナ教の伝統的な教義を身につけて語り尽くした18歳の時の著者が、さらなる発展と実践を求めて脱宗教的精神性を求めていく段階まで読み進めてきました。

 

ジャイナ教の厳しくも柔軟な教義に感動を受けると共に、先日まで没頭していたチャールズ・ブコースキーを思い出しなんとも面白い共通点に気づいたので書いておこうと思います。

 

全ての生命を尊重し、菜食主義非物質主義を求めるジャイナ教

暴力と性と薬物の氾濫を語ったアメリカのビート文学の脈絡にあるチャールズ・ブコースキーとは一見極めて対極に位置する存在なんですが

 

ブコースキーをどう読むかによっては非常に近しい求道の精神に見えてくる。

 

重要な点は彼は極めてアメリカ的な暴力性から出発しながら、破滅的な求道の先に非物質的な彼岸を見ているというところ。アメリカ的でありながは真正面からアメリカに中指立ててやろうという闘争の思想であるところだといえる。

 

チャールズ・ブコースキーの遺作エッセイ「死をポケットに入れて」で彼は人類を指差し「ひり出された糞」と呼び、毎日競馬場へ通い魂をすっかり抜き取られてしまう事でその事をハッキリと認識する事ができると言っている。彼の私小説的な著作を読んでいくと彼の動向はアメリカ内にありアメリカという世界との闘争である事がわかる。

 

つまり「ひり出された糞」とは直接的には彼を含むアメリカ人であり、当事者でありながら卓越した客観的視野をもってそれを語っているといえる。  

 

そして彼は友人のギャンブラーの言葉を引用し金についてこう言う「金が問題になる時はそれが多すぎる時か少な過ぎる時だ。そして、私はどちらでもなかった。」

 

そして彼は神を信じていない。しかし、神の存在を否定しているわけではなく、キリスト教的観念を物差しに使いながらも"私は"信仰していない、という立場を取っている。

 

ここまで考えて疲れてきたので続きはまた後日。笑

小春日和

春一番が吹いたものの、まだ寒さがチラついていた関東でしたが今日はまさに絶好の小春日和。桜も満開との事。季節が巡っていくのを感じれる事は素晴らしい。おそらく多くの人と同じように自分の中の変化もある時期で、また回り回っている感覚を感じています。

 

今年頭から、具象的なものに惹かれていました。何故かわからないけれど、ずっと抽象の中を歩いてきたような僕がアメリカに見られるような具象のリアリティに接近していた数ヶ月でした。元が沖縄出身でアメリカンカルチャーの中で育ったので、暫定的な地点への原点回帰だったのかもしれない。

 

そして改めて、具象に何かを見いだす事の少ない性質なんだと感じた。ラテンアメリカ文学の魔的な幻想や、アジアの多元宇宙的な抽象に改めて自分の居場所を見つけて頷いています。

 

はっきりと観るために距離を取ったのかも?しれない。

 

そして、心の方向を変えてくれるような本には突然に出合う。導かれるように。今回は重要な契機を与えてくれた人から渡された一冊。インド思想の核心を体現するSatish Kumar著のYOU ARE THEREFORE I AM : A Declaration of Dependence

邦題

君あり、故に我あり

依存の宣言

 

全ての文章に気づきがあるような凄い本なんですが、自分のタイミングに合致して心に刺さった一節を引用します。サティシュ・クマール氏の母、敬虔なジャイナ教徒の日々の回想の中の言葉。

 

蛇は毎年古い皮を脱ぎ捨て、すばやくその皮から離れていく。同じように、人生というものは、執着、期待、野心という皮を成長させるのよ。だから、私たちも蛇と同じようにその皮を脱ぎ捨て、私たちの魂がアーナンダ、喜びの大地に触れることができるのうにしなくてはならないの。

 

変化とは生まれるための死。喜びを探す道。新しい春がやって来た東京で、この本に出会えた事に感謝します。

 

 

崩壊 備忘録

おそらく半年ぶりにここへ。この存在すら忘れていた。

 

過去の記事を読むと、驚愕と羞恥、無邪気な期待と無知。書いていて良かったな。。

書いていなければおそらく完全に忘れていたであろう状況と心境の変化。28年ずっと続けているだけかもしれないけど。笑

 

半年前の期待は綺麗に崩壊し、諦観と達観。人間簡単に違う環境で生きていけない。という事でまた本能渦巻く東京へ戻るべく動き回る昨今。

 

環境との不協和音でかなり多くの事を回想してた日々で手元を照らす光と本質を写す鏡になってくれた本の話を。

渋谷を一人で徘徊してた時に出会った吉増剛造の詩的自伝。

 

この人への共感はもはや救いとも言える程で。自分の心境を代弁しさらに道を示してくれるような、共鳴。

 

詩を通して感じていた共鳴の理由が、この自伝で益々明らかになり、さらに生き方への共感はもはや力強く賛同されたような錯覚までもよおす程に、歓喜。この人の求める生が溶解し渦巻いている時間空間。それを探し、求め、呑み、吐き出し、世の血潮の媒介となって徘徊し続ける人生。

 

これだ。笑

 

最近は般若心経、聖書、吉増剛造を軸に思考が廻りようやくまた自分の時間を歩き始めた感じがします。

 

無益な独白を最期まで読んで下さったみなさまへ

今日心を打った詩、吉増剛造の自伝に抜粋されていたエミリー・ディキンソンの詩の抜粋を。

 

 

 

死の床を広くつくるがよい

畏れと敬いでつくるがよい

優れて公正な審判の日の始まるまで

そこで待つがよい

 

褥を真っ直ぐに

枕をふくらませよ

日の出の黄色い騒音から

この場所を守れ

 

 

小石はなんていいんだ

道にひとりころがっていて

経歴も気にかけず

危機も恐れない

 

あの着のみ着のままの茶色の上衣は

通りすぎていった宇宙が着せたもの

 

 

暫く継続して書くかもしれない。文字を求めている。inもoutも良し。文字の独立性。情報の中立性。素晴らしい。

庭師修行①イントロ

音楽を提供するアートサロンのようなお店で働いていた時、それは確か一年半ぐらい前に、たいへん評判のいい占星術をやられていた(今はオリジナルティーパックなど作られている)ロドリーゴさんという方がよくお店で仕事しに来ていて、その中で話すようになりひょんな時僕の星を見てくれた。

 

お会いする時はいつもお互い仕事中だったので、やりとりは簡単なものであったが結果はとても刺激的な内容だったので今でも覚えている。

 

ロ「中村さんはバッチリ芸術家の星、でてましたよ。それから、もう少し後になるんですが(←ここ重要)、クラシックや民謡など、歴史のあるものとの相性が良いので、そちらに行かれると思います。」

 

その後約2年後、藤沢に引っ越し、琉球古典音楽研究所に入会した。そして今の親方である庭師の方に弟子入りした。

 

毎日植物と触れ、彼らとの付き合い方を教えてもらいながら考えるうちに巨大な時間のウネリに取り込まれていく感覚に陥入る。1年単位で木を剪定して整えていく。1年単位の成長。時間をじっくりかけて枝を入れ替える事で勢いが取り戻されのびのびとした姿になっていく。その美しさを最大限生かしながら共生する美の感覚をいわゆる和の文化に見るうちに、今までになくこの国が好きになっていく。

 

琉球古典音楽に触れる時も似たような感覚を受ける。深淵、脈々と受け継がれる感性。

 

今までにやってきたポピュラー音楽やコンテンポラリーなものに解釈/昇華していく事も続ける事で自分なりのインプット/アウトプットの中で考えながら、今後どれだけ原始に近づけるかだなぁと思う。

 

じっくり学びます。

 

 

書く事

書く事は忘れるためにある。

文字にする事で減らす事のできる脳内情報。

逆説的に、失いたくないものは文字にはできない。

過去をなかなか書けないのはそれが理由かな?

 

消え行く所感を書く。忘れいくものを書く事。それが書く事。歴史は残された文字の集積。忘れないもの失われないものは歴史には載らない。

 

行間を生きる。何者でもない自分を生きる。社会的肩書の、形容名詞の着けようのない自分を生きる。

 

忘れられる自分を忘れられるつもりで生きる。

 

本質的。

 

無常。

 

それは私は自由だと思う。

 

記憶が薄れるという事は記憶された事実の後に起こる。記憶した事実は残る。そこに愛も恋もある。

 

それで良い。

ブログは

即興の独白。

 

即興でない独白は、あるのか?

 

情報の多い都会を離れ辺境へ。世界との付き合い方を再調整するべく、生活習慣を見直すために引っ越しました。

 

まず体。体は意識によって司られ、生活習慣によって実質的に創り上げられ維持管理されている。健康である事。この事を毎日の最優先事項に意識的に掲げる。身体的健康、精神的健康、経済的健康。

 

食事内容の改善。適度な運動。呼吸法。水分補給。

 

この作業はほとんど引き算的作業である。無駄なものを捨てていく感覚。残すべきものが自然と選ばれていく。

 

次に考え方の調整。強迫観念からではなく真に主体的な欲求を自らの内に探す。〇〇でないと〇〇だから〇〇する、という反動的に廻る思考回路を捨てる。シンプルに、純粋な自己実現願望はどこに向いているか。これはなかなか難しい。周りの世界から自立する事は時に拒絶が必要なので摩擦をする事なく躱す柔らかさが肝である。

 

世の中を動かす大きなビジネスが上記の強迫観念的な欲求を煽って廻る事と、コミュニティの内部に動物的直感によって生まれる公共の精神によって守られる規律との狭間で我々は生きている。

 

動物的直感を取り戻そう。動物的な価値観の最上にあるのは、健康、ではないか。健康とはつまり持続可能な適度な緊張と緩和、苦痛と快感のサイクル。

 

あらゆるステータスを表す数字ではなく、今日の目覚めが快いか。労働の後の達成感に幸せを感じる事ができるか。

 

数字は概念である。私達は実在する物質であり、身体として生きる動物だ。概念に飲み込まれる必要はない。