太宰治 狂言の神
三日坊主の三日目がやってきてしまいましたが、だんだん楽しくなってきたので続くかもしれません。読みだすと止まらないですね。最近は毎日通勤時間が1時間半あるから、助かる。笑
それはそうと、やはり言葉ってのは面白いですね。作家は凄い。自分の事でも人生を独占して生きるって簡単じゃない。だいたいの人が周りの環境に影響されて生きてる中、彼らはそこには仮の存在を残し、文の中に真の自分を創るから、侵されない。早死が多い事を考えると楽ではないだろうが、尊敬しますね。
では三日目
果たしてどこから形容したらいいのか。まず、太宰はこれ、タイトルから決めてかかったのだろうか。凄い。
退廃思想の即興演奏。JAZZだ。ふりーじゃず。コンテンポラリイジャズ。
話の筋を立てずに閃きを文字で追いかける。そのいちいちのフレーズが存在感を示し一言一言の遊びがニヤつかせる。
曰く「たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折の作家」のような「老大家の手記」風に取繕われた文体には魅力があり
話の構成の端々に狂気が満ちる。
シラフで書いたのか?
あざとい装いを意図的に纏う試みそのものが悪戯的で、
行儀悪く世のタブーを持て遊ぶ太宰の人間性が笑う。
友達になりたい、太宰治。なんて面白いヤツだ。
活き活きと死ぬ。
明朗に死ぬる。
話の舞台を時折破壊して太宰本人の脳内実験である事を露呈するのも、遊んでる。
実話だからこそ、か?いやいや首吊って30分もたないだう。
叩かれる様が思い浮かぶ、挑発的な部分も含めて好きだなぁ。
だんだん虜になりつつあります。太宰治。お前は本当にダメなヤツだ。人間失格だ。
太宰治 駆け込み訴え
そうきたか
太宰治は例えば白昼真っ只中で野糞をしたというような話を人間の芯から滲み出る業として書くことのできる稀有な作家ですね。
行儀の悪い感性の鋭さ。大好きです。
「はい、はい。申し遅れました。私の名は商人のユダ。へっへっ。イスカリオテのユダ。」
最後のこの一文に「へっへっ」とわざわざいれるあたりが好きです。
この小説に関しては随所に見られるユーモアの行儀の悪い事この上ない。しかし笑える。
漫画セイントお兄さんに通ずるような宗教へのアプローチ。が太宰治のユダを通してのアンチキリスト表現は辛辣かつ生々しい。
タブーを笑いに変えてしまうあたりはこの人の生き様を感じる程です。
織田作之助にして「日本には宗教がなく、それが歴史的大作が生まれない所以だ」という日本という土壌で
「最近大人しくなってきていて心配だ」という織田作の心配をばっちり裏切っていく暴れん坊なこの作品に見える太宰治は
最後のオチのように「へっへっ」とニヤついていたに違いない。
織田作之助 夫婦善哉
三日で辞めるつもりで書き散らしブログ、始めました。
何故か文が書きたくて仕方なくてですね。脳内体操。
日々読んだ本の、批評ではなく感想といった感じでゆるりと書き散らかしていきたいという所存です。まあ自己満足ですね。
この人は戦後日本文学の異端児なんですかね、土足のままの文学というような表現で自身のスタイルの模索をされていました。
ヒロポン常用者、所謂シャブ中でお亡くなりに。
それはそれは行儀が悪かったのかというと、当時の文壇の中では異端だったのでしょうが僕の読みごこちからいくと凄くスマートな文で。
夫婦善哉なんか人情話で人間の生々しさを書いているんだが言葉の数が少ない故にリズムが早いし全体をミニマルテクノめいたスマートな雰囲気が感じられました。
文学雑誌に寄せた評論「文学的饒舌」でいかに10行を1行にするかを工夫した時期があるそうで、なるほど。
同じく雑誌への短い評論の「土足のままの文学」は織田の高い志が読めるのですが、太宰治と坂口安吾の名前を並べ
「僕は太宰くんと坂口くんに期待している。しかし最近太宰くんが大人しくなってきていて心配だ」
と興味深い事をおっしゃっていますね。
と、いうことで徒然なるままに次は太宰治を読もうと思います。
「申しあげます。申しあげます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい、厭な人です。ああ。我慢ならない。生かしておけねえ。」
冒頭から飛ばしている期待の作品「駆け込み訴え」
また読んだころに。僕のやる気が消え失せていなければ書きます。さようなら。