演無 健忘症の書き散らし

虚言癖の独り言

鬱と躁

もし人生の良し悪しや幸福度が全てその人の外界の感受の仕方によるものだとしたら、全ての行動や選択は幸福度とは関係のないものとなる。

 

なにがおきても幸福を感じるような思考回路や感受性を身につけたとしたら、我々は何かを得ようとする必要がない。

 

ただ流れに身を委ねあるがままに生きて死ぬ。そこに最大の幸福を見いだすことのできる人を、おれは今みたい。そして自分もそういう風に生きていけないか考えている。

 

肩書きもなんでもよい。サラリーマン、土方、ホームレス、アーティスト、料理人、フリーター。

これらは外界の情報。

 

内側に実際に入り込んでくるのは五感を通したリアルタイムの感覚の情報のみ。その他は偶像的であると言える。

 

我々は社会という偶像の中で生きて、実像を見えなくなってしまっているのかもしれない。

 

幸せとは、偶像からではなく実像からくるはずだ。快感とは、極めてフィジカルなものだから。

 

揺るぎない喜びのフィルターをもつ。

そうやっていきる。